学びたい!に対する PDCA 不全
アゴラ:大学生は勉強しなくていいのか
http://agora-web.jp/archives/793423.html#
日本の(とくに文系の)大学生があまり勉強しないというのは、いまに始まったことではない。恥ずかしながら、私自身も、大学生の頃は決して勉強していたとはいえない。しかし、先輩も、そのまた先輩も、それ以前の先輩も、たいして勉強しないでもやって来られたからといって、いまの学生が同じように勉強しないでやっていけるのだろうか。この問いに対する答えは、たぶん否(NO)である。
日本の雇用をめぐって以下のような変化が起こり、安価な海外の労働力を使わない理由がなくなっている。
(1)日本経済の期待成長率の低下ー企業の将来業績なんて不確定
(2)グローバル化ー安い労働力は潤沢
(3)情報技術革新の進展ー誰でもできる仕事は機械・コンピュータまかせ
よって、語学にしても、仕事に生かせるレベルの学にしても、身に着けないと生きてけないですよー、そういった内容だ。なにか尖ったものを持っていないと雇用する価値がないと見なされる。ひとりひとりが、プロ野球選手みたいな感じの働き方を求められるようになっていくんだと思う。
よく言われるところの話だし、正論であると思う。ただ、これからますます厳しくなるであろう経済・雇用状況が予想される状況下、ぼくは学生であったけれども、学生時代に勉強していたか、というと残念ながら No だ。加えて、学生時代にすごく勉強してたら今は全然違っていたか、というとそうは思わない(まだ半年ちょっとしか経過してないけど;)。そのように感じるのは、大学で勉強することが、どういった形で活きてくるのか想像できないということが大きいのではないかと思う。教養、あるいは論理的思考を鍛えるツールとしての学問以外に、どんな意味があるのか、当時はわからなかったし、考えもしなかった。想像力が足りない、と言われるかもしれないけれど、フツーの大学生なんてそんなものだ。
仮に、勉強する=実社会で活かせる専門性を身につける と仮定して以下の話を進める。この前提があるなら、将来就く職業が何であるかある程度確定できる必要がある。特に、理系のような研究を仕事にしうる場合ならなお更だ。けれど、実際にはそんなことはできなくて、カンケーない(学生時代の専門が本当に生きない:これはけっこう生物系にありがち)仕事をしていくことは非常に多い。英語は自助努力に大きく依存する側面が強い。・・・となると、ほんとうに勉強しなきゃ!って必要性を実感するのは、社会に出てからなんだと思う。
例えば学生時代にベンチャーなんかに出入りしてアクティブに活動していた人なんかはちょっと違って、経済・経営・法律に関して非常に積極的に勉強してた。他学部の講義に潜り込んでたり、それはもう凄まじかった。わかんないと仕事にならない、というのは強烈なドライビング・フォースなんだろうなと思ってた。けれど、そういうムキムキな学生ばかりが賛美される世界もなんか気味悪いし、それ以外の場(例えばバイトでも部活でもいい)でも「頭を使う・ヒトに使われる・ヒトを動かす」について学ぶ機会は沢山ある。
だから、学生に「勉強がんばりなさい」とは、ぼくは言えない。
大学生って、4 年間という時間を何で埋めていくかってのを自分で決められることに価値があると思う。そこから何を得て、誰と出会って、それからちょっと勉強して。その中で、何をして生きていくのか、どんなカタチで社会の役にたてるか、そんなことをぼちぼち考えて、学びについても将来についても、一定の結論を出して卒業するーこれはゆとり的な発想なんだろうか。
「学生時代に勉強しておきなさい」って言葉には、構造的な問題が隠れているような気がする。社会に出てしまうと大学に入りなおせない(入りなおしにくい)という問題だ。折角社会に出て、「これとこれを勉強しなおしたい」と思っても、できない。PDCA サイクルをまわせ、といわれるけれど、大学での学びに関してはそれが不全なのではと思う。海外には、社会人を経て大学に戻る、そしてまた実社会へ出る、そういう循環があるけれども、日本の雇用スタイルではできにくい。雇用のスタイルが上記の 4 つの変化によって、プロ野球選手化する(流動化する分、力があればよそに行きやすい、であってますよね??)なら、学びなおしの機会には恵まれるようになるのかもしれない。そうすれば、学生時代に足りなかった勉強を、「あのときやっとけば」といわずに今できるようになる。仕事で活かせるなら勉強も進む。仕事ができるようになる。お金が廻る。(理想的すぎるか・・・)
だから、いつでも勉強しなおせるように 1-3 が進んでくれれば、実は「大学生は勉強しなくていいのか」問題は解決するんじゃないかな、なーんて思っています。・・・ぼくも所詮ゆとりですね:笑